基本情報
昭和時代

昭和初期

●昭和2年、老朽化の激しかった葛飾橋が鉄橋に架け替えられました。道路の整備も進み、松戸-市川、松戸-金町、松戸-流山を結ぶバス路線が次々に開設され、人々の新たな足となりました。

●昭和11年には、常磐線の上野-松戸間が電化され、上野と松戸は23分ほどで結ばれました。

?松戸市の誕生?

●昭和8年には松戸町と明村が、さらに昭和13年には松戸町と八柱村が合併しました。市制施行への機運か高まり、昭和18年4月1日、松戸町と馬橋村、高木村が合併し、県下7番目の市として「松戸市」が誕生しました。当時の人口は、40,433人でした。

昭和20年代

●終戦後の食料・衣料などの日常生活物資の不足からくる全国的なインフレ、また政治・社会体制の大きな変革の中で、誕生間もない松戸市の都市づくりは始まりました。

●6・3制の新しい教育制度が発足し、中学校が次々に開校しました。

●昭和24年には常磐線が取手まで電化され、昭和27年には競輪開催中の臨時駅として北松戸駅が開設されました(競輪場は昭和25年の開設)

●戦後の混乱期もようやく抜け出した昭和29年、小金町と合併。人口も66,709人となり、その後の発展への足掛かりとなりました。

昭和30年代

●昭和30年4月、新京成電鉄松戸-津田沼間(26.2キロメートル)が開通しました。

●同年11月、日本住宅公団が金ケ作(かねがさく)地区に大規模な住宅団地の造成計画を発表。常盤平団地と名称も決まり、入居が始まったのは昭和35年4月でした。

●このころから松戸市は、人口急増の時代を迎えます。

●新国道6号線の工事も始まり、松戸バイパスが昭和36年に開通しました。

●また、昭和35年には、北松戸と稔台に、昭和37年には松飛台に工業団地の造成が始まりました。

昭和40年代

●小金原団地が造成されるなど、昭和40年代に入っても人口急増が続き、昭和43年には20万人、昭和48年には30万人を突破するという勢いでした。市では、学校建設、道路整備、環境衛生施設の整備などの対応に追われました。

●すぐやる課が誕生したのは、昭和44年。それまでの役所のイメージを変えるものとして注目され、松戸市の名が全国的に有名になりました。

●昭和46年、オーストラリアのボックス・ヒル市(現ホワイトホース市)と姉妹都市提携し、交流が始まりました。

●同年、常磐線が複々線化し、営団地下鉄千代田線と相互乗り入れ開始。また、昭和48年には武蔵野線新松戸-府中本町間が開通するなど交通網も充実しました。

昭和50・60年代

●昭和50年代に入ると、ようやく人口の増加も落ち着き始めました。

●激しかった人口急増の歪みを是正するため、計画的な都市づくりが推進され、小・中学校のプレハブ教室の解消、排水路の整備、市民センター・クリーンセンターの建設、松戸駅周辺の整備などが行われ、着々と近代都市へと変貌を遂げていきました。

●人口も45万人を超え、首都圏有数の都市として発展を続けています。