松戸市消防局(AED貸出問合せ先)※ホームページより申請書ダウンロードできる TEL:363?1111 住所:松戸新田114?5
中央消防署 TEL:368?0119 住所:松戸新田114?5
西口消防署 TEL:367?0119 住所:古ヶ崎67
二十世紀が丘消防署 TEL:392?0119 住所:二十世紀が丘梨元町1
小金消防署 TEL:340?0119 住所:小金きよしヶ丘3-20-4
馬橋消防署 TEL:344?0119 住所:西馬橋蔵元町179
大金平消防署 TEL:348?0119 住所:大金平5-414
八ヶ崎消防署 TEL:347?0119 住所:八ヶ崎6-47-1
五香消防署 TEL:387?0119 住所:五香西3-8-1
六実消防署 TEL:383?0119 住所:六高台7-94 東部消防署 TEL:391?0119 住所:高塚新田359-19
消防訓練センター TEL:348?1966 住所:八ヶ崎4-50-2
消防署(AED)
警察署
警察署
・松戸警察署:HP TEL:047-369-0110 住所:〒271-8557 松戸558-2
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・松戸東警察署:HP TEL:047-349-0110 住所:〒270-0023 八ヶ崎4-51-9
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人口
平成22年8月1日現在
世帯数:22,136
人口総数:491,037
男:246,654
女:244,383
*前月末日現在の「住民基本台帳人口」と「外国人登録人口」を集計したもの
最新版はココ
地名の由来
平安時代、松戸は下総(しもうさ)国の国府(市川市国府台)から常陸(ひたち)国の国府(茨城県石岡市)、武蔵(むさし)国の国府(東京都府中市)へ通じる分岐点で、交通の要衝でした。
太日河(ふとひがわ・現在の江戸川)の津(渡し場)でもあったことから、「馬津(うまつ)」とか「馬津郷(うまつさと)」と呼ばれていたといいます。それが「まつさと」になりやがて「まつど」になったのが松戸の地名の起こりだといわれています。
位置
北緯 ? 35度47分(松戸市役所)
東経 ??? 139度54分(松戸市役所)
面積 ? 61.33平方キロメートル
東西 ? 11.0キロメートル
南北 ? 11.5キロメートル
最高海抜 32.4メートル(21世紀の森と広場内生命の森付近)
最低海抜 1.1メートル(栄町西三丁目付近)
昭和時代
昭和初期
●昭和2年、老朽化の激しかった葛飾橋が鉄橋に架け替えられました。道路の整備も進み、松戸-市川、松戸-金町、松戸-流山を結ぶバス路線が次々に開設され、人々の新たな足となりました。
●昭和11年には、常磐線の上野-松戸間が電化され、上野と松戸は23分ほどで結ばれました。
?松戸市の誕生?
●昭和8年には松戸町と明村が、さらに昭和13年には松戸町と八柱村が合併しました。市制施行への機運か高まり、昭和18年4月1日、松戸町と馬橋村、高木村が合併し、県下7番目の市として「松戸市」が誕生しました。当時の人口は、40,433人でした。
昭和20年代
●終戦後の食料・衣料などの日常生活物資の不足からくる全国的なインフレ、また政治・社会体制の大きな変革の中で、誕生間もない松戸市の都市づくりは始まりました。
●6・3制の新しい教育制度が発足し、中学校が次々に開校しました。
●昭和24年には常磐線が取手まで電化され、昭和27年には競輪開催中の臨時駅として北松戸駅が開設されました(競輪場は昭和25年の開設)
●戦後の混乱期もようやく抜け出した昭和29年、小金町と合併。人口も66,709人となり、その後の発展への足掛かりとなりました。
昭和30年代
●昭和30年4月、新京成電鉄松戸-津田沼間(26.2キロメートル)が開通しました。
●同年11月、日本住宅公団が金ケ作(かねがさく)地区に大規模な住宅団地の造成計画を発表。常盤平団地と名称も決まり、入居が始まったのは昭和35年4月でした。
●このころから松戸市は、人口急増の時代を迎えます。
●新国道6号線の工事も始まり、松戸バイパスが昭和36年に開通しました。
●また、昭和35年には、北松戸と稔台に、昭和37年には松飛台に工業団地の造成が始まりました。
昭和40年代
●小金原団地が造成されるなど、昭和40年代に入っても人口急増が続き、昭和43年には20万人、昭和48年には30万人を突破するという勢いでした。市では、学校建設、道路整備、環境衛生施設の整備などの対応に追われました。
●すぐやる課が誕生したのは、昭和44年。それまでの役所のイメージを変えるものとして注目され、松戸市の名が全国的に有名になりました。
●昭和46年、オーストラリアのボックス・ヒル市(現ホワイトホース市)と姉妹都市提携し、交流が始まりました。
●同年、常磐線が複々線化し、営団地下鉄千代田線と相互乗り入れ開始。また、昭和48年には武蔵野線新松戸-府中本町間が開通するなど交通網も充実しました。
昭和50・60年代
●昭和50年代に入ると、ようやく人口の増加も落ち着き始めました。
●激しかった人口急増の歪みを是正するため、計画的な都市づくりが推進され、小・中学校のプレハブ教室の解消、排水路の整備、市民センター・クリーンセンターの建設、松戸駅周辺の整備などが行われ、着々と近代都市へと変貌を遂げていきました。
●人口も45万人を超え、首都圏有数の都市として発展を続けています。
明治時代・大正時代
明治時代
●明治時代に入ると、旧水戸街道は国道になり補修・整備され、馬車・荷馬車などが往来し、交通量も増えていきました。江戸川の水運も盛んで、納屋河岸(なやがし)には多くの船が米や麦・酒・木炭などを集積し、松戸は交通の要衝として発展を続けました。
●また、東葛飾郡役所も松戸に置かれ、東葛地方の中心都市でもありました。
●明治22年に町村制が施行され、松戸市域には松戸町・明(あきら)村・八柱(やばしら)村・馬橋(まばし)村・高木村・小金町が誕生しました。
●明治29年には土浦-田端間の鉄道が開通、明治44年には松戸-金町間に橋が架けられ、人々の生活にも大きな影響を与えました。
●明治43年には、松戸郵便局に電話が設置され、翌年から小金町・流山町・市川町など近隣の町と通話ができるようになりました。
●また、明治44年には、松戸町に待望の電灯がともりました。
大正時代
●大正5年、馬橋-流山間に流山軽便鉄道が開通しました。また、タクシーやトラック輸送業者も登場し、自転車が普及するなど、交通や輸送手段も大きく変わりました。
●大正8年には、相模台に陸軍工兵学校が開校しました。また、同年、松戸実科高等女学校(大正10年には松戸高等女学校と改称)が創立されました。
江戸時代
江戸時代
●幕府が水戸街道を整備すると、松戸と小金は宿場町として繁栄します。現在の松戸郵便局の辺りには、大名の宿泊施設である本陣や脇本陣、一般人の宿である旅篭(はたご)が軒を並べていました。小金宿の旅篭「玉屋」は現存しており当時の様子を忍ばせます。
●一方、松戸の江戸川沿いには河岸(かし)「河の港」ができ、銚子方面でとれた鮮魚を江戸まで運ぶ中継基地として発展しました。
●常盤平・松飛台・五香六実の一帯は、小金牧と呼ばれた幕府直轄の放牧場でした。毎年3月には野馬捕りが行われ、良馬は幕府で使用し、他の馬は希望者に払い下げられました。幸谷(こうや)の福昌寺にある絵馬には、野馬捕りの様子が描かれています。
●小金牧では、徳川将軍による御鹿(おしし)狩りが行われ、その様子を描いた錦絵も残っています。
鎌倉時代、室町・戦国時代
鎌倉時代
●鎌倉時代の下総(しもうさ)国は、源頼朝の挙兵に功績があった千葉常胤(つねたね)が守護に任ぜられ、一族が各地に広まりました。
●「アジサイ寺」で知られる長谷山本土寺(ちょうこくさん・ほんどじ)にある日蓮直筆の「諸人御返事(しょにんごへんじ)」と「大学三郎御書(だい がくさぶろうごしょ)」の二つの文書と、1278年製作で県内二番目に古い釣り鐘は、国の重要文化財に指定されています。また、武田二十四将の一人で、信 玄・勝頼に仕え、後に徳川家康に仕えた秋山虎康の墓(市内最古の墓石)と、その娘で、家康の側室となり家康の五男・武田信吉を生んだ秋山夫人の墓もありま す。
●馬橋にある臨済宗万満寺(まんまんじ)も鎌倉文化の影響を受けた寺で、1254年に建立されたといわれています。国の重要文化財である「阿(あ)」「吽(うん)」の仁王(金剛力士)像があり、その作者は不詳ですが力強い彫刻には定評があります。
室町・戦国時代
●戦国時代になると、千葉氏の一族から出た高城(たかぎ)氏が大谷口の小金城を築き、東葛飾地方一帯を支配していました。高城胤辰(たねたつ)の代 には、有名な「国府台(こうのだい)の合戦」(1564年)で活躍するなど繁栄しましたが、1590年の豊臣秀吉の関東攻めによって小金城は開城します。
●胤辰の母は、夫の死後髪を下ろし、月庵桂林尼(げつあんけいりんに)と号し、小金城東側の鹿島神霊の横に庵を建立しました。庵は後に慶林寺となって今に伝わっています。
伊勢丹
住所:〒271-0092 千葉県松戸市松戸1307-1
電話番号:047-364-1111
営業時間:午前10時?午後7時 連日休まず営業いたします。
ウェブサイト:http://www.isetan.co.jp/icm2/jsp/store/matsudo/index.jsp
地図:
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